シングル単位・フェミのページ(1)

フェミ・シングル単位関係

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ジェンダー概念に関する論文(2007年)

大阪経済大学『人間科学研究』第1号(2007年)~第3号(2009年)原稿 

(注:ここに掲載するにあたって、元の論文にあった表はくずれていたりしてみにくくなっている。 この論文の後半は「フェミニズム(2)」のページに掲載)


「ジェンダー概念の整理」の進展と課題

                            イダヒロユキ

目次

はじめに

1 バックラッシュ反撃本の成果と限界

2 「ジェンダー概念の整理」の進展

3 ジェンダー概念の整理をめぐっての論点

4 ジェンダーフリー概念を擁護すべきか

5 私たちは何をなすべきか


はじめに 

フェミニズムをめぐる誤解や揺らぎが目立ってきている。バックラッシュという反フェミニズムの動きの中で、フェミニズムのシンパ、中間派だけではなく、フェミニストの中でもフェミニズム(ジェンダー/ジェンダーフリー)の理解、戦略をめぐって「揺れ/混乱」があるように思う。しかしそれは、実はこれまで潜在的にあった問題点が顕在化しはじめたということでもある。大雑把なところではいいのだが、批判にさらされてそれに反撃/対応する中で、曖昧なところが出てしまっているという状況である。「専門家的に抽象的に言う」のはそれほど難しくないが、平易な言葉でバランスよく説明するというのは、実は案外難しい。そこに詰めきれていない理解の矛盾点が出る。

本稿では、2006年前後にバックラッシュに対抗する本がいくつか出たことを受けて、ジェンダーおよびジェンダーフリー概念について、どのような整理が進んだのか、そして何が未整理で、あるいは論点/対立点で、フェミニズムへの豊かな理解が広がっていくための課題は何なのかを明らかにしていく。


1  バックラッシュ反撃本の成果と限界

 2005年から2006年にかけて、バックラッシュに反撃するフェミニズム系の著作がいくつも出た(表―1)。【注1】

表―1 バックラッシュ反撃本(2005-2006年を中心に)

浅井春夫・他編『ジェンダーフリー・性教育バッシング――ここが知りたい50のQ&A』大月書店、2003年

日本女性学会・男女共同参画をめぐる論点研究会編「Q&A――男女共同参画をめぐる現在の論点」パンフ+HP、2003年3月

日本女性学会編『女性学』11号、「男女共同参画社会をめぐる論点と展望」新水社、2003年

『We』「特集バックラッシュを打ち負かせ!」2004年11月、2005年1月、同2・3月号

浅井春夫『子どもの性的発達論(入門)』十月舎、2005年7月

奥山和弘『ジェンダーフリーの復権』新風舎、2005年

木村涼子編『ジェンダーフリー・トラブル』現代書館、2005年12月

『アジェンダ 未来への課題』11号(特集 ジェンダーバッシングに抗して)アジェンダ・

プロジェクト編、星雲社発行、2005年12月

あごら新宿編『ジェンダーバッシング』(あごら305号)BOC出版、2006年3月

伊田広行『続・はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2006年3月

“人間と性”教育研究協議会編『新版 人間と性の教育② 性教育のネットワークQ&A』大月

書店、2006年

浅井春夫・他『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る』明石書店、2006年4月

日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―

――バックラッシュへの徹底反論』明石書店、2006年6月

労働教育センター編集部・編『ジェンダーバッシングを超えて』(女も男も――自立平等――

NO107)労働教育センター発行 2006年6月

あごら新宿編『いま、女性学は』あごら306号)BOC出版、2006年6月

宮台真司・ほか『バックラッシュ!』双風舎、2006年7月

若桑みどり・他編著『「ジェンダー」の危機を超える! 徹底討論!バックラッシュ』青弓社、

2006年8月 

「反撃するフェミニズム」『インパクション』154号、2006年10月

ジェンダー・学び・プロジェクト編『ジェンダーの視点から社会を見る』解放出版社、2006

 年11月

加藤秀一『ジェンダー入門』朝日新聞社、2006年11月

唯物論研究会編 『ジェンダー概念がひらく視界―バックラッシュを超えて』(唯物論研究年誌、第11号)青木書店、2006年

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出版が相次いだことも含めて、フェミ側の成果としては、量的な反撃ができたこと、質的にもほぼ、バックラッシュ派の言い分を批判しつくしているという意味で、反撃できたということがまずあげられよう【注2】 。またジェンダー概念の整理やバックラッシュという動きそのものの分析【注3】 も進んだ。

 また、フェミニストの中でも「ジェンダーフリー」概念には賛否両論があるが、バックラッシュ状況の中で、性教育の現場などから、実態に基づいた力強い議論が出され、それが共有され、フェミ側の団結がすすみ、基本的に「ジェンダーフリー」擁護の流れでまとまってきていることも成果の一つに数えられよう。

 さらにインターネット、メール、メーリングリストやHP/ブログを通じての情報交換や連携もようやく進んできている。東京での上野千鶴子講師はずし事件や福井でのジェンダー関連図書排斥事件などでは運動が盛り上がったし【注4】 、各地で条例改悪などとの戦いも行われている。さらに日本女性学会をはじめとしていくつもの学会がバックラッシュに対抗した声明をだした【注5】。

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注2  とくにバックラッシュがらみでよく出される質問にかなり詳しく、かつわかりやすくQ&A形式でまとめたもの(日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―――バックラッシュへの徹底反論』がでたことは、今後、草の根レベルでの共通理解が広がるうえで非常に有効であったと思う。

注3  バックラッシュの分析・規定での論者による細かい点での相違はあるが、バックラッシュは、単なる「女ぎらいの男たちの反動」などではなく、新自由主義、ミリタリズム、ナショナリズムなどが結合したものであるという点で大方の見解は似ている。私は、以下のようにまとめている(日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006])。

バックラッシュとは、ジェンダー平等(男女共同参画、ジェンダーフリー、性教育、男女平等、フェミニズムなど)の施策がすすむことに対する組織的な攻撃(反撃、巻き返し、反動、抵抗)のことである。その性質は、①新自由主義展開・戦争遂行国家化による不満のガス抜きをすすめるための「フェミニズム悪玉論」(いけにえ)、②政治や社会問題を批判的に見る目や考える力を奪い、「国を守るために闘う男/それを支える女」というジェンダー(男女二元制)を維持・強化することで、保守的・強権的社会を形成する動き(障害物の除去としてのフェミ攻撃)、③一定のジェンダー平等(ジェンダー主流化)の進展への保守派の危機感からの反撃、といったものである。周知のように、グローバル経済化、新自由主義の展開の中で、能力主義思想・優勝劣敗政策がすすみ、格差と貧困が広がっており、それにともなう不満・不安定への対応策として、家族(母性、父性)や国家、伝統・天皇制への帰属をうたう保守主義的な価値観を広げていこうとする動きが広がっている(新自由主義と新保守主義の融合体)。そのとき、個人の自立/権利/自由/性的解放を主張し、家族に埋め込まれているジェンダーの抑圧を批判し、シングル単位的なシステム改革(新社民主義)を提唱し、「国や天皇や会社のために戦う男・死ねる男/それを支える女」を批判するフェミニズムは、非常にじゃまな存在となっている。同じようにじゃまな存在が、人権擁護の運動であり、反体制的な勢力(左翼、野党、NPO、平和運動、良心的メディア、福祉充実論者、環境擁護運動等)であって、フェミニズムを担う勢力は、そうしたものと大きく重なっている。

 そのため、フェミニズム攻撃は、新自由主義と新保守主義を結合させている今の日本の政権とそれに親和的な勢力にとって、必須の課題となっている。したがって、バックラッシュは、新自由主義、自己責任を強調する能力主義、新保守主義、ナショナリズム、ミリタリズム、復古主義などが、個人の自由や平等を否定するという一点で反フェミ連合を形成し、全体として家族尊重の名の下、シングル単位的改革を敵視しておこってきたものであるといえる。 

注4  福井県の事件では、福井「ジェンダー図書排除」究明原告団および有志(上野千鶴子氏や事務局の寺町みどり氏が中心)によって、非常にすばらしい運動が展開されている。責任を曖昧にしない、このような粘り強い運動が求められている。

注5  たとえば日本女性学会は、2005年7月に「『女性学/ジェンダー学』および『ジェンダー』概念バッシングに関する日本女性学会の声明」、2006年12月に「教育基本法「改正」に関する緊急声明」を発表した。

注終わり

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 不十分点としては、フェミニズム側のそうした反撃が、ほとんどフェミ内部のみにとどまっており、メディアや行政を含む「社会全般」には届いていない/理解されていないという点があげられよう。バックラッシュに対抗する実践行動も不足している。本稿でみていくように、ジェンダーやジェンダーフリーをめぐるフェミニズム陣営内の無視できない差異や対立や未整理点も一部にある【注6】 。まだまだジェンダー、ジェンダーフリーの定義すら共有されていない。それも影響して、政府のジェンダー/ジェンダーフリーに対する見解へのスタンスもバラバラで、統一した対応が取れていない(後で、そのことが実践的には問題であると指摘する)。

 また理論的には、ジェンダーとセクシュアリティの関係、「性の多様性」「性別二元制(男女二分法)の問題」が、後述の議論にもあるようにまだまだ深まっていない。

 この間の「成果」を見てみれば、逆にこれまで意思統一が基本的なところでさえできていなかった(ジェンダー概念への無理解、浅い理解、不統一)ということでもある。研究者・学者が運動現場と切断されてきた傾向も明らかになったといえよう。

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注6  忘れてはならないのは、2005年末ごろまでは、「バックラッシュの言い分はあまりに愚かなので相手にしなくていい」というような雰囲気がフェミニストのなかでもかなり強かったという点である。メールアドレスを公開すると集中的攻撃を受けるなどの事例を受けて、声を出すと叩かれるから口をつぐんでおこうという「警戒心/恐怖心」もあったように思う。そのこともあって、明確な反撃が遅れたということは記憶しておくべきことだ。詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の年表を参照のこと。

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2 「ジェンダー概念の整理」の進展

私は拙著[2006](原稿執筆は2005年末)で、自分なりのジェンダー概念の整理を提起した。その過程で思ったことだが、これまで、日本でジェンダー概念がどのように使われているか、広く目配りしたうえで総合的に整理したものがなかったということである。 

それに対して、私の整理に加え、2006年にはいくつかのジェンダー概念の整理の論考が出てきた。そうしたことによって、現在、私も参加した、2006年3月の集会をまとめた若桑みどり・他編著[2006]での江原、加藤、井上各氏の整理とあわせて、ジェンダー概念の整理がほぼまとまってきているといえる状況である【注7】。

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注7 私の見解では、私のまとめと他の論者のまとめは、かなり重なるので、大まかな方向としてはまとまってきていると判断している。ただし異同があり、そのことについては後で言及する。

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伊田のジェンダー概念整理

まず私のジェンダー概念の整理を簡単におさらいしておく【注8】。  私は以下の4つのジェンダー概念の区別が重要であると考えた。

①:単なる性別としてのジェンダー

②:社会的性別・性質としてのジェンダー(価値中立、当該社会に現存する性のありかた、性的アイデンティティ)

③:規範および参照枠組みとしてのジェンダー

④:「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」としてのジェンダー

(③④に対応して、「そうした性に関わる規範性、差別・支配関係を明らかにし、それを解消することを目指すもの」というニュアンスを含む)

 これに対しては、井上輝子氏などから一定の賛同をえているが、まだ普及しているとは言いがたく、その意義もほとんど理解されていない状況である【注9】。

私のジェンダー概念を踏まえれば、さまざまな誤解や批判にも適切に答えることができるのだが、そのことは、あとで徐々に説明していく。さて、私のジェンダー理解の上では、ジェンダー平等は、「男女平等」を超えて、性的マイノリティも含む解放の話というようになる。人の性のあり方は、本当は100人100様なのに、2分法化・2種類のみにされ、その枠に押し込められているということを暴き、それに批判的になる(本質主義批判)というということまで含んでいるということになる。

 また、ジェンダー概念自体に、ジェンダーフリー、ジェンダー平等指向、ジェンダー・センシティブという意味があると明言するのが、私の主張の特徴である(これまでそのような明言はなかった)。

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注8 詳しくは、拙著[2006]、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収のジェンダー概念整理の拙稿を参照のこと。

注9  個人的経験として、ジェンダー関連のメーリングリストで2006年はじめにジェンダー概念をめぐって意見交換があり、いかに多くの人に私がまとめたような「ジェンダー概念の整理」構図がないかがわかったという経験がある。たとえばフェミニストでも「男らしさ/女らしさ」ということについて、問題ないといったり、なくさねばならないと言ったり、一面的に理解していることがあった。正しくは、伊田②と③の両面があるので、それに応じて対応すべきなのである。

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もちろんこのようにいうと、「ジェンダーは権力関係を示すと同時に、権力関係をなくすことも意味するなど、まったく反対の意味を持っていることになる。むちゃくちゃな概念だ」という批判がくるのはわかるが、単純に反対の意味があると言うのではなく、上記したように、基本的に社会的な規範や権力的関係の性を表すと同時に、そうしたことを見抜く視点(まなざし)であり、そこにはそれに対して批判的になるという暗黙の前提が組み込まれているという関係にある。結果、上記のようにまとめられるのであり、事実そのように多様な意味で使用されており、文脈で正しく理解できるので、それでなんら問題はない。

そもそも一つの概念で複雑な複数の意味を含むことはよくあることである。「資本や国家や貨幣や幻想」という諸概念しかりである。

またバックラッシュ派が、「ジェンダー概念自体に支配や差別を含んでいるからダメだ」「政府の見解と違っている」というようなことを繰り返し言っているが、先ず政府の見解が間違っているのであり、次にジェンダー概念に性差別・権力関係に批判的になるというニュアンスが入っているのは事実であり、それは誇らしいことなので、なんら問題はないと私は考える。バックラッシュ派と対決すべきは、まさに性差別に反対するのか否かという点なのであって、価値中立的にジェンダー概念を矮小化することで攻撃を避けるべきものではない【注10】。

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注10  80年代から90年代にかけて、「女らしさ、男らしさに囚われることなく、自分らしく」というようなことがよく言われてきた。それが90年代半ばごろからジェンダーフリーというようになってきた。そうした蓄積を受けて、男女共同参画社会の推進においても、事実上のジェンダーフリー的な文言が入ることが多くなっていった。

例えば、千葉県市川市の男女共同参画社会基本条例は、ジェンダーを「男女の役割を固定的に捉える社会的、文化的又は経済的に培われてきた性差」と定義し、家族や地域で「ジェンダーにとらわれることなく」とうたい、実質的に「男らしさ、女らしさ」を否定する内容となっていた。ジェンダーフリー的な内容をもったものであった。

これに対して、バックラッシュの動きの中で、2006年12月、保守系議員が、ジェンダーの文言が無用な混乱を招いているとして、ジェンダーフリー的ではない新しい条例に変えた。新条例では、「男女が特性を生かし、必要に応じて適切に役割分担」する社会を目指すとし、ジェンダーの文言を一掃した。女性の恣意的な中絶を容認する「性と生殖に関する健康と権利」(リプロ)の部分も削除し、代わって、「子を産むという女性のみに与えられた母性の尊重」を盛り込み、「育児における父性と母性の役割を大切にし」とうたっている。加えて、ジェンダーフリー教育を排し、「思春期の性別に配慮した教育」「発達段階に応じて適切に行われる性教育」を実現すべきだとしている。


ジェンダー・バイアス、ジェンダー・センシティブ

簡単に、ジェンダー関連の諸概念の意味を整理しておく【注11】。 「ジェンダーの視点」でみたときの「偏り/偏見/非対称性」を総称して、「ジェンダー・バイアス」という。「伊田①②」に対応して、単に現存の男女性別において「偏り/非対称性」があるというときもあれば、「伊田③④」に対応して、規範性や権力性を反映した「偏り/非対称性」の場合もある。

たとえば、性別によって異なる規範意識や性のステレオタイプ、偏見を強固に持ち、それを当然/自然と考え、相手にもそれをあてはめたり、押し付けたりする傾向は、ジェンダー・バイアスのある態度といえる。しっかりと反対意見を言ったとき、男性なら評価されて、女性なら「生意気だ」と思われるような、同じことをしてもそれが男性か女性かで評価が異なるという「偏り/偏見」がジェンダー・バイアスである。

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注11  拙著[2006]にまとめたものを簡略して再掲している。

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「ジェンダー・センシティブ」とは、「伊田②③④」の意味のジェンダーに敏感であることである。ジェンダー概念自体に、ジェンダーフリー、ジェンダー平等指向という意味があったのだから、ジェンダー・センシティブとは、生物学的性差(セックス)だけでなく、社会的性別であるジェンダーというものがあり、それが重要であるとみて、一見「自然」に見える事柄(性別による異なる扱いや個々人が持っている性に関わる規範)の中に「つくられたジェンダー」、「規範/差別/抑圧としてのジェンダー」を見出し、ジェンダー・バイアスをもたずに接する態度のこと、ジェンダーフリーやジェンダー平等を目指して敏感に接することをいう。

 一人の人に接するときに、性というものに関心をもたずにのっぺらぼうにみるのではなくて、その人のジェンダーが育った環境の影響を受けていることをふまえ、その人固有の立場や来歴、考え方に配慮し、その人のジェンダーに関わる全体を見出しつつそれらを尊重して関わるような姿勢も、ジェンダー・センシティブなありかたという。

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ジェンダーフリー

ジェンダーフリーとは、社会的性別(ジェンダー)に囚われずに、行動したり考えたりすること、その考えで社会変革していくことという意味である。性別をすべてなくす(性別消去、ジェンダーレス)とか、みなを中性(1色)にしていくことを求めているのではなく、性別による「不必要・不適切な区別」「たった2色だけの扱い」をせず、ジェンダーの抑圧から解放されることを目指す概念である。ジェンダーフリーは、そうした考え方を基礎にして、文脈によって、目指す方向であったり、視点、考え方、生き方、状態、具体的制度設計などを意味したりする。けっして意識啓発だけを問題とする観念論などではない。

人間の中で男女の区別をなくし、1種類の「中性」人間だけにするなどということは、できるはずもないし、ジェンダーフリー論者も求めていない。その逆に、ジェンダーフリーは、100人を100タイプ(100色)の個々人として、その違い・多様性を尊重していく概念である(その意味で、個人単位の平等論)。

ある一人の人間のアイデンティティとは、一つだけなのではなく、多数の属性、多数の側面、多数の性質の集合としてのアイデンティティである。ある面では、日本人であり、ある面では地球人であり、ある面では男性であり、ある面では家事好きであり、ある面ではサラリーマン等々なのである。したがって性的にも、みな一人一人異なる。男女の2種類しかないと決めつけ、それを規範として男女2タイプの枠に押し込める伝統的な性別観のほうこそ、自由の抑制である。

つまり、ジェンダーフリーとは、ジェンダーの意味の「伊田③④」のレベルでジェンダー概念を理解した上で、従来の抑圧的・固定的なジェンダーから自由(フリー)になる(離れる、囚われないようになる)ことを目指すことであり、社会環境の面でも、「つくられた抑圧的なものとしてのジェンダー」、「ジェンダー・バイアス」、「ジェンダーに基づく差別・抑圧・暴力」「人を性的に差異化する政治」から自由になる生き方や思想や社会の仕組みのことである【注12】。

各人が囚われから自由になって、多様な生き方ができるためには、多様な生き方を公平・中立に取り扱うことが要る。そのためには、考え方や制度設計を「個人単位(シングル単位)」に変えていくことが必要なので、ジェンダーフリーの思想は、個人単位型の社会に変革していくという意味をもっている。

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注12 その意味で、ジェンダーフリーを、ジェンダー・バイアス・フリーの略だと限定的に規定するのは間違いである。それは一つの意味に過ぎない。

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ジェンダー・ニュートラル

 「ジェンダー・ニュートラル」は、「ジェンダー中立」とも言われる。ジェンダーの影響を受けない、ジェンダーに関係なく、ジェンダーに囚われないという意味での「ニュートラル」であり、したがってジェンダー・センシティブに、ジェンダーから自由に、ジェンダーフリーにというニュアンスまで含むのが積極的に用いるときの基本の意味である。ジェンダーに囚われず、多様な生き方の人が公平に生きられるようにするためには、上記したように考え方や制度設計を「個人単位」に変えていくことが必要なので、ジェンダー・ニュートラルが、個人単位型の制度に変革するという意味で使われることもある。

男女共同参画社会基本法第4条にある「社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない」という視点は、ジェンダー・ニュートラルにしろと言っていることになる。

しかしこの概念も、ジェンダーのどの意味を前提にしているかで、意味が異なってくる。「伊田②③④」まで全部を含んだときは、「ジェンダーフリー」と近くなるが、「伊田①単なる性別」に限定しているなら、単に「男女・性別関係なく」という意味になる。

「②社会的性別・性質としてのジェンダー」の意味に限定して、既存の男らしさ、女らしさを残したまま、しかしそれに対してどちらが得ということなく中立的なものをという程度の意味で遣うときもある。

フェミニズムでは、「ジェンダー中立的な制度設計をしよう」というように基本的には積極的な意味でこの概念を使ってきた。結論として言えることは、ジェンダーの意味を明示しつつ、文脈からジェンダー・ニュートラルの意味が適切に通じるように用いるべきだということである。

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注1

直接バックラッシュ批判ではないが、フェミニズム側からの関連のものとしては他にも多くの本が出た。金井篤子他編『ジェンダーを科学する』ナカニシヤ出版、2004年、伊藤公雄『男女共同参画が問いかけるもの』インパクト出版会、2003年、日本女性学会編『女性学』11号、2003年など。

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ジェンダーの視点

豊かなジェンダーの意味を尊重した視点ということであるから、「伊田③④」の水準まで含めるなら「ジェンダーの視点」というだけで、「ジェンダー・センシティブの視点」という意味や従来の性別役割から自由になって生きるという意味(ジェンダーフリーの視点)、ジェンダー平等指向の視点、ジェンダー・バイアスをなくす視点など多様な意味を含むことになる(どの意味になるかは文脈による)。

つまり、「ジェンダーの視点」といったとき、どの意味のジェンダーといっているかによって意味が異なるわけだが、「伊田③④」のレベルまで含めると、それは、基本的には、性が「社会的に作られたもの」であるということを見抜き、「ジェンダー・バイアス」を敏感に感じ取って、性に関わる差別をなくしていくという「ジェンダーフリーの視点」という意味まで含むのである。


ジェンダー平等

「ジェンダー平等」という概念も、「伊田②③④」まで含めて理解するなら、単なる性に関わる平等とか従来の意味での狭義男女平等というだけの意味ではなく、「性を、伊田③④のジェンダーの視点で深くとらえて、ジェンダーフリーを目指していく意味での平等」ということになる。

もう少し詳しく説明すると、男女二分法的/本質主義的に「男/女」を捉えた上での(=性別特性論の上での)男女平等ではなく、性の多様性を踏まえ、性的マイノリティも含むという意味で、男女平等を発展させた概念がジェンダー平等といえる。

ジェンダー平等とは、ジェンダーを見抜く、つまり、ジェンダーの観点で性のあり方を見抜き、社会的に形成されたものだと認識し、「伊田③④」の意味まで含めてジェンダーを捉え、性差別を見抜き、性に関わる差別・権力関係をなくしていき、個人を単位として多様性を尊重した平等を考えていくという意味での平等といえる。

ただし、過去の運動で「男女平等」概念は、性における権力関係や差別をなくしていくという、非常に積極的な意味で使われてきたという実績もある。日本語として分かりやすいので、ジェンダー平等の意味を含ませつつ、分かりやすく男女平等ととりあえず言っておくということが有効な場合もある。したがって今日においても、「男女平等」という言い方が一概にだめということにはならない。大事なことは、その限界性を分かっておくことと、文脈・使い方であろう。


3 ジェンダー概念の整理をめぐっての論点


加藤秀一氏の本をてがかりに

加藤秀一氏はその著書『ジェンダー入門』(加藤[2006]、および若桑みどり・他編著[2006]内の論文)でジェンダー概念の説明などを行っている。キッチリ説明しているという意味で、基本的によい本で、フェミニズム側の財産となる作品である。立場としても、バックラッシュを批判し、ジェンダーフリー擁護に近い立場をとっている。しかし、明確に書いた分、私との違いも明らかになったので、加藤氏の論にコメントするカタチで、私のジェンダー概念の意味を整理/説明していきたい。

   

問題点(1)は、ジェンダーには、加藤の4つの意味以外の用い方があるのにそれを加藤は見落としている(排除している)という点である。加藤の「ジェンダーの4つの用法」とは、1:性別そのもの、2:自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)、3:社会的に作られた男女差(ジェンダー差、性差)、4:社会的に作られた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)である(加藤[2006]p23)。そして加藤は、4に規範があるとみる。

 しかし、私の意見としては、加藤の2,3,4は全部、「価値中立的で、社会的な性」という点で基本的に「伊田②」(伊田の定義②のこと)にまとめられるとみる(加藤の4の規範部分だけが伊田③になる)。それどころか、「伊田②」では、自分がトランスジェンダーであるとか、同性愛であるといった、男女二分法を越えた多様なままの性自認も含むとみる。加藤の定義ではそこは明示されていない。

そして伊田の定義では、独自項目として、加藤の整理にはない、③:規範・参照基準としての性、④:権力関係としての性の定義を加えているので、伊田の定義のほうが網羅していると考える。しかも伊田定義では、③④には、規範や権力関係を見抜いてそれを批判する、変革して差別をなくしていくというニュアンスまで含みこんだ概念であると明確に指摘しているが、加藤にはそれがない。それでいいのだろうか。つまり、加藤氏のまとめ方は狭いのではないか?伊田のまとめのほうが優れているのではないかというのが、私の最初の指摘である。

問題点(2)は、性差と性役割の機械的分離の問題(加藤[2006]p32)である。加藤は、「性差=客観的な事実に即した記述的なもの」としている(「事実であるとは言わないと注釈してはいるが)。それに対し、「性役割=事実に即していない規範的なもの」として、2つを分ける。

学者的には、一見、「記述的なものと規範的なものの区別」というのはすっきりしたものであるように思いがちであるが、しかし、こと「性」に関わって「性差と性役割」という言葉をあててこの2つを切断することは必ずしもできない。加藤は説明において、「男性は頭がよい」とは事実に即していないというが、統計をもって、男性グループのほうが空間的能力に長けているとか、論理性があるとはいえるかもしれない。もしそれを批判するなら、性差といわれるものの多くも批判的に見直せる。加藤は「幼児が好きな遊びには性差がある」というが、そこには規範性はないのか。その事実認識自体に誤りやバイアスはあるのではないか。「事実」というが、どのような統計の取り方か?調査の仕方は? どのような調査設計をするか? どのような方法を選ぶか。どの局面をどのように切りとり、どう表現するか。そのようなことに、立場性/党派性が出る。規範的圧力の結果でもある。過去のプロセス・歴史や社会的影響を抜きに、いまの目の前の現象を記述するだけというなら、「家事は女性の役割、女はやさしい」というものも、ときには客観的に観察され記述されうるものである。事実に即しているといえるときがある。規範性自体を問題とするなら、伊田の定義③のように明確に、価値中立的な②と区分して③として独立して規定すべきで、加藤の区分では、規範性があらわにならない。ましてや規範と戦っていくというジェンダー概念の真髄が隠されてしまう。

つまり、性差と性役割を記述的なものと規範的なものとキレイに分けて説明することはできない。換言すれば、加藤の性差と性役割というわけ方は論理合理的なものではなく、価値中立的な記述(伊田の②)か、規範性・権力性を見抜くという意味(伊田③④)であるのかの区分が重要だといえるのではないか。「伊田②」に入る性役割もあるし、「伊田③」に入る性差もある。「女らしさ」「男らしさ」が単に社会的にあるものとするなら「伊田②」であるが、それが社会的規範や参照基準の意味で使われるなら「伊田③」である。つまり「女/男らしさ」をどの意味で使うかによって、それはあってもいいものか、なくしたほうがいいものかはわかれる。ジェンダー概念を価値中立的に使うときもあるが、性差別をなくすという価値を含んだものとして使うときもある。加藤氏の定義の「混乱」=「伊田②と③の区別の重要性を理解しない混同」はここに関わっている。ここを自覚しないジェンダー理解が、加藤氏以外にも見受けられるが、それは問題ではないか。

問題点(3)は、加藤は、セックスとジェンダーという二分法を疑うといいながら、ジェンダーとセクシュアリティの区別/区分にはこだわっている点である(加藤[2006]6章では切断しているといえる)。しかし実際は、セックスとジェンダーとセクシュアリティは、どれも分けられるし、また分けることの限界もある。実はこの3つは、重なり合っている。かなり絡み合い、関係しているという面がある。

ジェンダーを語りながら、セクシュアリティを排除するというのは重大な問題なので、私のジェンダー論では、セクシュアリティに関する諸問題(セックス、性解放、性教育、性暴力、性の商品化、暴力的ポルノ、セックスワーク、中絶、化粧・ダイエットなど美への囚われ、恋愛等)を組み込んでいる。権力関係、規範性などを扱おうとするとき(ジェンダー平等、ジェンダーフリーを考えるとき)、セクシュアリティの問題抜きにはとても狭くなってしまうだろう。ここは性の多様性の理解に関わるところである。加藤はなぜ、「ジェンダー入門」でこのセクシュアリティとの絡みの重要性を言わないのだろうか。(この点についてはあとで再び触れる)

問題点(4)は、加藤は、ジェンダーを分析概念とすることで、その意味を限定し、ジェンダーフリー概念を軽視してしまっている点である。

 加藤は、セクシュアリティ概念は、「性欲(感覚、欲望)そのもの」を表す概念ではなく、性へ向かう私たちの〈まなざし〉であり分析概念だという(p151)。だが、それは、狭すぎる捉えかたではないか。両方の用い方があるとき、どうして一つだけにするのか。

同じように、加藤はどうも、ジェンダー概念も、「性別の状況そのもの」や、「性的あり方そのもの」、「性に関する意識そのもの」というようにはあまり積極的には捉えていないようである(規範となっているまなざしという点に重点をおく捉え方)。

だから「抑圧的固定的なジェンダーから離れて、それにとらわれずに自由に生きていくこと、それにとらわれない考え方や制度」という意味でのジェンダーフリーという概念に積極的な賛意を示さないのではないか。だが、それでいいのか。

ただし加藤の定義の「4、性役割=規範」としているときには、それから離脱していくというジェンダーフリーということをいってもよさそうであるが、「1、2、3」の側面を重視して、明確に「規範としての性のあり方を批判していく」というジェンダーのラジカルな批判的意味を押し出さない(自覚していない)ので、ジェンダーフリーに積極的でないのであろう。

この点は、政府のジェンダー概念定義が、「ジェンダーそれ自体には、良い、悪いの価値を含まない」というように、「伊田②」に限定されてしまっているという問題と関連している。加藤の定義であると、政府のジェンダー定義が間違いだと言い切れるであろうか。

問題点(5)は、加藤の「分析概念」の意味が狭いという点である。私は、広義の意味で「分析概念」を捉えるべきだと考える。

私のジェンダー理解であろうと、社会的現実をジェンダーという概念で分析するので、分析概念といってもいいが、それは、かならずしもジェンダーが価値中立的な概念だということにはならない。これは、伊田の言う②だけでなく、「伊田③④」の意味まで含んでいるということに対応する。

しかし、加藤の定義には、「ジェンダー概念は価値中立的なものではない。フェミニスト的な価値を含んでいる」という明示がない。実際そのような意味があるのに、なぜ定義にそれを入れないのか。

推測するに、学問は価値中立的であるべきという悪しきアカデミズムの影響があるのではないだろうか(第5節で再言及)。政治や価値観から離れ、階級(階層)・立場(民族性、性、その他を含む)・身体性・個別経験から離れ、超越的な立場から絶対的真理を追及するというようなあり方のほうがよいとして、学者社会内部で通じる抽象的で普遍的な記述こそが学問的に洗練されているよいものであるというような、アカデミズムのあり方をどう考えるのか。そこに異議を申し立てるのが、女性学/フェミニズムのよい伝統ではなかったか? この点も(4)と同じく、政府のジェンダー定義へのスタンスに関わってくる。


江原由美子の主張をてがかりに

フェミニストの第一人者の一人である江原由美子氏は、若桑みどり・他編著[2006] 『「ジェンダー」の危機を超える!』内の論文で、ジェンダー概念を整理しており、またかなりジェンダーフリー擁護に近い立場を表明している。しかしジェンダー概念を価値中立的とするようなところもあるので、私のジェンダー整理との異同を検討しておきたい。

江原のジェンダー概念の7つの意味とは、1:性別、2:当該社会に現存する性差、3:社会的文化的な性別特性、4:性差に対する社会的意味付け、5:当該社会に共有されている性についての知識一般、6:性に関する社会規範や社会制度、7:男女間の権力関係のことである。そして江原自身は5の意味で使うと明言している。 

私の立場から見ると、「江原定義の2、3、4、5」は、基本的に「伊田②」であり、「江原6」が「伊田③」、「江原7」が「伊田④」となっている。しかし「江原4」は「伊田③」にもなる。ここは、上記の加藤の問題点(2)でも指摘したところであるが、概念整理において価値中立かどうかの視点が明確に意識されていないことの現われではないだろうか。

また江原は、自分自身のジェンダー概念は「江原5」だと明言するが、なぜ多様な使い方が現実にあるときに、「5」に限定するのか。ジェンダー概念の中で非常に大事な点である「伊田③④」を自分は採用しないと言うのは、どういうことだろうか。ここには、加藤の問題点(4)(5)と同じ問題があるのかもしれない。江原は、「性別にかかわる変数に敏感であるべきだ」(p50)と述べて、一定のフェミニズム的スタンスを求めてはいるが、それはあくまで中立客観的な学問的スタンスとのバランスの中での話にしており、反差別、解決の展望や意欲を前に出さない。ジェンダーを「伊田③④」のように理解することにかなり明確に抑制的な立場をとる。

例えば「・・・平等な状態をジェンダーと呼ぶとか、不平等な状態、抑圧的なものをジェンダーと呼ぶとか、そういう概念の使い方をすると、現実を記述するときにとても面倒くさくなって使いにくいと思っています。そういう直感があって「中立」と申し上げただけで・・・」(p210)と述べて、他の人の使い方を縛りはしないが、自分は分析道具として価値中立的なものとしてのみジェンダーを使うとしている。だが、フェミニストのスタンスとしてそれで十分であろうか。また江原自身がこれまで行ってきた研究活動と実践において、ジェンダーをほんとうに5の意味だけで使ってきたといえるであろうか。この点は、加藤の定義と同じく、政府のジェンダー概念定義が、「ジェンダーそれ自体には、良い、悪いの価値を含まない」というように、「伊田②」に限定されてしまっているという問題へのスタンスとして重要な意味を持ってくる。

これに関連するが、江原は、現存する性差そのものと観るか、認識概念とするかというようにも問題を設定している(p56)。しかしこれも二者択一にする必要があるだろうか。文脈によって両方を使い分ければいいのではないか(私がこの点にこだわるのは、政府定義への対応のスタンスという、実践的に重要な差異をもたらすからである)。

 ここで一定触れておくならば、江原の上記のスタンスは、内閣府の定義 への評価が甘いということにつながっているように見える【注13】。 

 内閣府がジェンダーの定義をしたことに対し、江原は、「行政機関の文書で使用する場合の定義を定めたものであり、この意味で十分意義がある」、「しかしそれが学問の世界における各自の概念定義や概念使用法まで縛るものではないことは当然」(p54)などと述べている。

 しかし私の立場は、政府のジェンダー及びジェンダーフリーの説明自体に重大な問題が内包されているというものである【注14】。  簡単に言えば、政府はジェンダーを「伊田②」の意味に限定して、「伊田③④」といった積極的な意味を排除してしまっており、これはバックラッシュ派の言いなりになった定義といえる。政府・行政がこう定義することで、とても大きく現実のジェンダー平等運動を制約し、バックラッシュ派を勢いづかせてしまう。その意味で、江原氏のスタンスには危険性があると私は考える(この点については本稿5節で詳述)。

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注13 2005年12月に政府内閣府の「第2次男女共同参画基本計画」で「ジェンダー」の説明文が挿入された。これについては後で詳しく言及する。

注14  本稿5節でも言及したが、詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の拙稿「政府の「ジェンダー」および「ジェンダーフリー」に対する見解について」を参照のこと。

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井上輝子氏の主張をてがかりに

井上輝子氏は、私のジェンダー概念の整理を踏まえて主張されており【注15】 、そのバランスの取れた全体的な立場には、私は基本的に賛成し共感する。ただし、井上の見解のうち、以下の2点について、少し言及しておきたい。

井上は、「私見では、ジェンダーフリーを目標として掲げることには積極的な意味があるが、教育や実践の方法としては、ジェンダーフリーというよりはむしろジェンダーに敏感であることが重要と思われる」(p78)という。

 だが、私がこの文章をより積極的に言い換えるとすれば、次のようになるだろう。すなわち「社会変革の目標だけでなく、教育や実践の方法としても、ジェンダーに敏感であること、ジェンダー平等を求めること、ジェンダー・バイアスをなくしていくこと、ジェンダーフリーの視点を持つこと等がすべて重要と思います。」

 つまり、ジェンダーフリーとジェンダー・センシティブを二者択一的にとらえるというより、私の考えでは、ジェンダー・センシティブ概念のなかに、「性差別を見抜き、それを批判し、それから離脱するという意味(ニュアンス)」も入っていることを自覚し、対立させないことが重要だと思う。ジェンダー・センシティブ概念に、「ジェンダーフリー的になること、ジェンダーフリーの感覚で敏感になること」がときには入っているし、またジェンダーフリー概念の中に、「ジェンダー・センシティブになって、ジェンダー平等を目指す、ジェンダー・センシティブの感覚」が入っていることがあるといえばいいのではないか。ジェンダーフリー教育が、現場で実際おこなわれてきたとき、それは何もジェンダー・センシティブと対立するものではなかったのだから。

結局、井上のように二者択一的にとらえる記述の積極的目的が不明である。これはジェンダーフリー攻撃があるときに、ジェンダーフリー概念擁護への消極的な姿勢のようにもとられかねない。井上氏にはそのような意図はないと思われるので、やはりここは、ジェンダー・センシティブとジェンダーフリーを二者択一的にかかずに並列させたほうがいいのではないかと言うのが私の意見である。(後述する、「ジェンダーの視点=ジェンダー・センシティブ・オンリー」でいいのかの検討項目参照)

 次に、井上は、「『このご時世だからこそ、ジェンダーフリーの旗を掲げるべきだ』『一度使い始めた以上は、この用語を使い続けるべきだ』といった原理主義的要請がフェミニストたちに投げかけられる例も耳にする」(p79)という一文も記している。このあと、井上は、ジェンダーフリー概念を使う/使わないは自由であるべきという。

「原理主義的要請」とはどのようなもののことなのか不明であるが【注16】 、私の見解は、ジェンダーフリーという用語を使う/使わないは各人の自由であるのは当然であり、文脈や場所、対象者、さまざまな状況で言葉は選択すればいいというものである。第3者が、他者にたいして、使い続けろとか、使うなとか指図すべきものではないと思う。その上で、本稿で示すように、ジェンダーフリー攻撃がある中で、その誹謗中傷には毅然と反撃し、「ジェンダーフリー概念は間違ったものではない」と擁護していくことが重要と思っている。

つまり、私の主張は、「『使用禁止、概念廃止(それによるフェミ攻撃)』への抵抗」であり、少数派の言論尊重=多様性の擁護である。「原理主義的要請」というレッテルを横に置けば、私は、「バックラッシュがある中で、ジェンダーフリー擁護のスタンスは重要である」という主張に賛成である。

 この問題を考えるとき、たとえば、ジェンダーとかリプロという概念にも同じことを言うだろうか、と問いかけてみればいい。「このご時世だからこそ、ジェンダー(/性教育/DV反対/天皇制反対)という言葉を使い続けるのは積極的だ。沈黙せず声を出していこう、権力が消滅させたがっている言葉を使っていこう。」ということは、積極的なことだと私は思う。

権力と対抗する、「マイノリティ=少数側の意見/思想を言う自由を守る」ことこそ多様性尊重なのではないだろうか。強い側/多数派が自分たちの意見を強制するときと、弱い側/マイノリティ側が自分の意見を言う自由とを区別すべきである。とすれば、いま、政府や東京都が使用禁止とでも言うべき圧力があるなかで、ジェンダーフリーという旗色の悪い表現を擁護しよう/使おうということは、積極的なことと思う。

以上、2点にわたって、井上の意見を契機に、私のスタンスを説明した。

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注15 若桑みどり・他編著[2006]所収の井上論文参照。

注16  自分の立場を横において、あるいは自分がジェンダーフリーを使い続けると言うリスクを引き受けずに、他者(一度でも「ジェンダーフリー」概念を使ったもの)に、「使い続けろ」と言うように立場を迫るような姿勢があるとすれば、それは問題であろう。なお、ジェンダーフリー概念をめぐっては、『We』誌上で、上野氏の見解への批判がなされたことがあるが、私はそれは適切な批判であったと認識している。またあまり有名というわけではないが、女性学会のニューズレターなどで、私は『We』2004年11月号の上野千鶴子氏の見解を批判したこともある。

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日本学術会議 学術とジェンダー委員会」の報告書の検討

2006年11月22日に「日本学術会議 学術とジェンダー委員会」(委員長 江原 由美子)が報告書「提言:ジェンダー視点が拓く学術と社会の未来」(以下「学術会議報告書」とする)を発表した。第一線の研究者が集まり、充実した内容となっているが、本稿の主題の点からは問題点もあるように思えるので、言及しておく。

 「学術会議報告書」では、ジェンダー研究とは、「ジェンダーに敏感な視点(ジェンダー視点)」に立って人類をめぐる諸現象を分析・解明する、学際的な研究領域であるとする。「ジェンダー視点」とは、人種・民族・階級・年齢・障害の有無などの差異と交差するジェンダーを問い直すことを通じて、真に多様な人間存在に対して配慮を要請するものであるとする。そして、既存の学問における研究の主題や方法を「ジェンダー視点」で見直す諸研究は、人間存在の多様性に配慮することを通じて、多様な生の共存に貢献してきたという。

「学術会議報告書」では、ジェンダーとは「社会的・文化的性(性別・性差)」を意味する学術用語とするとしている。そして、以下のように説明する。

ジェンダーは、人種・民族・階級・年齢・障害の有無などの差異と交差しながら多様な形態をとることが知られている。ゆえに、「ジェンダーに敏感な視点」とは、人間という種を男女という生物学的性別に還元するのではなく、「人種・民族・階級・年齢・障害の有無などによって多様性を持つ性別=ジェンダー」に、十分配慮する視点のことを指す。「ジェンダーに敏感な視点」を本報告では簡略のために「ジェンダーの視点」あるいは「ジェンダー視点」と呼ぶことにする。また、各学問領域において展開されている「ジェンダーの視点」に基づく諸研究を、「ジェンダー研究」と総称する。

 また、次のようにも言う。「学」という語が固有の対象と方法を有する専門分野という意味を持つのに対し、ジェンダー研究は、むしろ視点とアプローチの採用を意味する。このため、本報告ではジェンダー研究に「学」という語を使用することによる誤解を避け、学際的研究領域であることをより明確に示すため、「ジェンダー研究」という語を選択することとする。

 つまり、「学術会議報告書」は、ジェンダーの定義を基本的に「伊田②」とする立場をとっている。私の立場から言えば、ジェンダーの定義(意味)が狭すぎる。そして「ジェンダーの視点=ジェンダー・センシティブ」としているが、これだけでいいであろうか。私の立場では、「ジェンダーの視点」ということの中に、ジェンダーフリーの視点など多様な意味を含めていた。「ジェンダー・センシティブ」を好むのは研究者/学者に多い見解であるが、ジェンダー・センシティブをジェンダーフリーやジェンダー平等と対立させることに、私は反対である。狭義の意味で、ジェンダー・センシティブをとらえるなら、それは、「ジェンダーという変数に敏感になるだけか?」「敏感になって、それで、どういう方向をめざすのか? 何もめざさないのか?」という問いに答えなくてはならない。私は、暗黙に含意されているものに目をつぶって、客観主義の装いを採ることは、消極的すぎるスタンスだと思うが、いかがであろうか。

 これに関係するが、ジェンダー研究を学際研究とすることには異論はないが、「視点とアプローチ」というように限定することは、上記の「伊田②に限定する定義」と結びつくと、加藤の問題点と同じく、やはり狭すぎるのではないか。結局、「学術会議報告書」は、学問的な客観主義の装いをしすぎではないだろうか。これでは、後述する政府見解へのスタンスも曖昧なものにならざるを得ない。私は、この点をめぐってフェミ陣営で議論が必要であると思う。


「学術会議報告書」の矛盾

なお、「学術会議報告書」は総論としては上記のスタンスを取ってはいるが、各論では、そうした中立的概念(伊田②に限定)を超えて、「伊田③④」と言える定義も採用している。つまり矛盾しているのである。

例えば、次のような、価値を含む説明が散見される(下線は筆者がつけた)。

「差異があると思われているところでは差異を相対化し、差異がないと思われているところに差異を発見するという理論的なツールとして、ジェンダーという概念は強力な効果を発揮してきた」

「歴史研究が既存のジェンダー関係の再生産と普遍化に寄与しないためには、史料の記号、表象、観念、慣用句、観察方法に内在するジェンダー・バイアスに注意を払い、これを根本的に批判しながら推進していくことが必要である」

「植民地主義と性差別が折り重なる地点で重層的な抑圧が存在したことを指摘」

「精神分析が温存している性別二元論を仮借なく批判しつつも、「メランコリー」といったフロイトの分析ツールを積極的に活用して、心的構造に刻まれる男性中心的な異性愛規範を明るみに出そうとした」

「これまでの日本では女性への差別は不幸にして存在していた。これを無くすることは、重要な目標である。」(経済学)

「近代人権論や近代法の本質が批判されてきた」「性別役割分業論や公私二元論の下で女性に対する差別や人権侵害が温存されてきたことから、欧米では第二波フェミニズムの影響を受けて、性差別問題を法理論的に解明するフェミニズム法学」 

「このような現状は、「ジェンダー」が、現実世界の抱えている矛盾や問題点を分析し、解明するために有効な概念であり、また、矛盾や諸問題を克服、解決するための方法を提示し得る概念であることを示しているものと言えよう。」

「本報告書の各学問領域おけるジェンダー研究の成果が示してきたように、こうした研究の意義には「性差別の是正」、「格差の是正」等を挙げることができる。これらは、つまり、「学術研究」とは、多様性を持つ社会構成員の間に公正性や平等性が確立される上で、その成果が生かされるのであるという視点を示している。」・・・

こうした記述がありながら、どうしてジェンダー概念を価値中立的にのみ限定できるのであろうか。矛盾している。

 「学術会議報告書」では、求める方向としても以下のように言う。

科学者コミュニティに向けて、ジェンダー視点があらゆる学術研究にとって必要かつ有効であることを認識し、各学問分野にジェンダー視点を取り入れること

行政及び教育研究機関に向けて、ジェンダー視点に立った学術研究及び教育を支援・育成すること、およびジェンダー概念の重要性を十分に認識し、その使用を促進すること

マスコミ・企業・一般市民に向けて、情報の発信及び受信において、ジェンダーに敏感な視点を持つこと、経済活動及び社会生活において、ジェンダーに敏感な視点を持つこと

こうした文言も、上記の各論のジェンダーの視点を踏まえれば、かなり、積極的に今の社会に対して差別をなくしていく方向で介入しようとしていると読むことができる。結局、総論におけるジェンダーの定義の限定や、ジェンダー・センシティブをジェンダーフリーやジェンダー平等と対立させるような記述は、各論と矛盾していると言える。


政府のジェンダー定義

本稿で、何度か言及しているように、政府の「男女共同参画基本計画(第2次)」(2005年12月)の中で、ジェンダーについて以下のように記述された。

「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」

人間には生まれついての生物学的性別(セックス/sex)がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた『男性像』『女性像』があり、このような男性、女性の別を『社会的性別』(ジェンダー/gender)という。『社会的性別』は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。

『社会的性別の視点』とは、『社会的性別』が性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もあり、これらが社会的に作られたものであることを意識していこうとするものである。

このように『社会的性別の視点』でとらえられる対象には、性差別、性別による固定的役割分担及び偏見等、男女共同参画社会の形成を阻害すると考えられるものがある。

その一方で、対象の中には、男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられるものがあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。

「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。

例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。

また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。

これは、ジェンダーを「伊田②」に限定してしまった、誤った説明である。またジェンダーフリーの定義を示さずに否定してしまっている。その他さまざまな問題点を含んだ文章である。これについては、5節で再び触れる【注17】。

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注17  詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の拙稿「政府の「ジェンダー」および「ジェンダーフリー」に対する見解について」を参照のこと。

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4 ジェンダーフリー概念を擁護すべきか


ジェンダー概念の理解は、いまのジェンダー平等運動においてどのような戦略/スタンスをとるかということに関連しているが、バックラッシュ派が攻撃している「ジェンダーフリー」概念にどのような向き合い方をするかは、その具体的な表れである。この問題は、ジェンダーの思想=フェミの思想をどのように、バックラッシュに対抗して守り、豊かにしていくのかに関わる。単なる「学者の細かい定義争い」などではない。


バックラッシュ派の典型的主張

 バックラッシュ派の代表的宣伝紙である『世界日報』(06年12月10日)で、市川市の男女共同参画条例の「改悪」(フェミニストからみて)に関連させて、ジェンダー/ジェンダーフリーについて以下のように述べている。ここにジェンダー/ジェンダーフリーという概念が、バックラッシュ状況においてどのような意味を持っているかが逆に明らかになっていると言える。

「旧条例は、ジェンダーを「生物学的性差とは別に、男女の役割を固定 的に捉え社会的文化的経済的に培われた性差」と定義し、これを男女平 等の実現を阻んでいる要因と指摘。「家族一人一人がジェンダーに捕ら われることなく、それぞれの個性を大切にする家庭」とうたい、事実上、父性、母性を軽視したものとなっていた。

 新条例案を議員提案した保守系四会派が、ジェンダーに込められた危 険な要因を見抜き、激しい批判に遭っても結束を乱さず、同条例案可決 にこぎつけたことは大きな意義がある。

 これまで、鹿児島県など、ジェンダーフリーの理念が盛り込まれた男 女共同参画条例を持つ自治体が、「ジェンダーフリー教育を行わない」 等の歯止めを掛ける県議会決議を行った例はあった。だが、ジェンダー の文言を随所に入れ込んだ過激な条例を抜本的に改めたのは、全国でも 初のケースだ。画期的な新条例の制定といえる。

 問題が表面化していなかった四年前に全会一致で可決された旧条例 は、全国フェミニスト議員連盟代表、石崎たかよ市議が中心となって作成したものだ。

 旧条例には「ジェンダーに捕らわれることなく」という表現のみならず、「市は、教育や男女平等に関する相談業務に携わる人を対象に、ジェンダーを解消するための研修を行わなければならない」という、極めて過激な文言が盛り込まれている。

 保守系会派市議は、ジェンダー解消を是とする条例が、「男らしさ、 女らしさ」の積極的な解消を重視し、男女ごちゃ混ぜ教育の根拠になっていくことを懸念。今議会で新条例案を提案した。

 実際、文部科学省が今夏公表した「学校調査」から、ジェンダーフ リー教育が教育現場に浸透していることが判明している。

 小学五、六年で、それぞれ七百三十数校が男女混合騎馬戦を実施して おり、その理由として「男女協力・男女平等の意識を育てるため」と答えている学校が少なくない。「男女の協力」との理由で、林間学校等で の男女同室の実施を説明している学校も見られた。

 さらに、児童の呼称を「さん付け」で統一している小学校は、七千二百八十九校、全体の32・8%にも上っている。

 保守系市議が市川市でも具体的事例があると指摘したのに対し、反対派市議は確認されていないと主張。また、過激なフェミニストは、市川市条例のような条例を根拠に全国的にジェンダーフリーを推し進めてき たといえる。実例が随所に現れてきてからでは手遅れである。

新条例は、間違ったジェンダーの思想を一掃した。その一方で、男女の特性を生かし    た積極的な共同参画の推進も唱えている。職場での「性別による差別」の是正は、旧条例の文言を生かしており、バランスの取れたものだ。

・・・ 今回、全国から保守会派市議への激励が多数寄せられた。市川市をモデルケースとして、全国でも間違ったジェンダー思想を一掃し、正しい男女共同参画のための条例へと改める時に来ている。」

この記事に明らかなように、まさにバックラッシュがいっているのは、フェミの思想そのものの否定である。表面上は、ジェンダーフリー、ジェンダーをめぐってであるが、その中身は、フェミニズムの主張全体の否定である。そのとき、ジェンダーフリーという言葉をダメなものの典型のレッテルにしている。

このようなときに、「ジェンダーフリーという概念はよくない」とするスタンスは、ジェンダーの理解を含めて、豊かなフェミを広げていくべき全体の構図(後述p○)の中で、その主観的意図とは別に、客観的にはバックラッシュに加担する効果を持つであろうというのが私の見解である。


山口智美氏の主張

 山口智美氏は、宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』やHP(2004年12月16日、東京大学ジェンダー・コロキアム「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」の記録等)などでジェンダーフリー概念を批判しているフェミニストである。フェミニストとして積極的な主張をされているが、ジェンダーフリー概念については、私と大きく立場が異なる。ジェンダーフリーをめぐって、ある意味、典型的な主張をされているので、彼女の主張を元に、私の立場を説明していきたい(以下の引用は上記HPから:下線は筆者)。

「レースフリー」などという概念は考えられない。=差別を見えなくするから。「ジェンダーフリー」も同様に、おかしな概念。」「ジェンダー・フリー」にこだわる必要性はあるのか? 説明しやすいはずの、男女平等や、性別役割分業/分担ではなぜいけなかったのか?」「ジェンダーフリーを使わない=バックラッシュに「屈する」ということなのか?実は学者のメンツがかかっているから、行政と学者の密着関係を問い直すことにつながるから、やめられないのではないか?」「日本女性学会Q&Aなどでは、「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、などと言われる:『ジェンダーフリー』な個人像を想定?「自分らしく」とはいったい何?ジェンダーがない人間など可能なのか?」

「私としては、「ジェンダーフリー」なんていう、曖昧かつ、保守的な言葉として生まれた歴史ももち、現在意味が混乱しまくっている言葉にこだわる必要がどこにあるのかと思っている。そんなわけのわからない言葉より、「男女平等」でも「性差別撤廃」でも「性別役割分担」でも、今まで女性運動がずっと使ってきた誰でもわかる言葉を使うか、あるいはそれらが不適切であるというなら、わかる言葉を作るかしたらいいのではないだろうか。

そもそも、「ジェンダー・フリー」が浸透しているという理解は本当なのだろうか?私の親類縁者やら、学校時代の友人やらを考えても、おそらく「ジェンダー・フリー」といわれてわかる人はほとんどいないと思う。だが、「男女平等」や「性差別」なら確実に通じるはずだし、「性別役割分担」は知らなかったとしても、説明しやすいだろうと思う。」

「 「バリアフリー」という言葉でイメージされる「バリア」のイメージは、「なくすべきもの、ないほうがいいもの」である。では、「ジェンダーフリー」は?「ジェンダー」ってないほうがいいものなのだろうか?もし社会から押し付けられた性役割、としての「ジェンダー」の意味に限定するなら、それはないほうがいいだろう。そして、日本で誤訳されているように、ジェンダーが「社会的、文化的性差」だというなら、それだって存在も怪しいものだし、ないほうがいいのかもしれない。だが、「ジェンダー」には「アイデンティティ」としての意味もある。私が「女」として「女性解放運動」に関わっていることも、私の「ジェンダーアイデンティティ」に基づいているわけだ。ジェンダーは、私のアイデンティティの重要な一側面をなしているのだ。 「ジェンダー」は必ずしも、悪いものとは限らない。アイデンティティをなす、という意味で、物理的な障害を意味する「バリア」とはまったく異なる概念なのだ。」

「・・・「中間層」が、もし私の親類縁者やら、昔なじみの友人やらをさすのだとしたら、その人たちに「ジェンダーフリー」という言葉は、どう考えても届いていないのではないかと私は思う。 むしろ、「ジェンダーフリー」という言葉の迷走ぶりは、そういう人たちに届かせないために、理解して社会変革なんかに動かないでほしいがために、行政主導で考え出した「わけわからない」言葉なのではないか、というようにすら考えたくなるくらいだ。」


斉藤正美氏の主張

 斉藤正美氏は、山口智美氏と同じく、ジェンダーフリー概念批判をされているフェミニストである。一部であるが、引用しておこう(上記HPより)。

 「ジェンダーフリー」っていう言葉は、実際にそれが使われている条例を見ても意味が定まらないものです。ジェンダーフリーの定義として条例でこのように混乱した意味を示していると、施策のレベルに下ろしても役にたつ施策が生まれそうにないです。まるで呪文の言葉のようであって、市民をかえって遠ざけるか、こういうわからない言葉をお勉強しようって、お勉強好きな人しか寄って来ない、このわからない意味をわかりたいっていう奇特な人しか寄って来ないものになっています。

ジェンダーフリーっていうふうに使ってきたのは、「女性学者が行政と一体化し『ジェンダーフリー』という意味が定まらない呪文詞を導入することによって女性運動を体制順応型に変えた」と思うんですね。ジェンダーフリーは、基本的に学ばないとわからないものになってしまっている。


上野千鶴子氏のスタンス

『We』2004年11月号や同時期の研究会(2004年12月16日、東京大学ジェンダー・コロキアムで行われた「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマの集まり【注18】 )などにおいて、上野千鶴子氏は、「ジェンダーフリー概念を使わなければいい」などと主張した【注19】。

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注18  「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマ企画は、山口智美・斉藤正美氏が企画し、上野千鶴子氏に持ちかけ、上野研究室ジェンダーコロキアムでの開催となった、と紹介されている。

注19  上野氏は同様の発言を別の場所でもしている。桜井裕子氏は、上野千鶴子氏の講演会「ジェンダーフリーのどこが悪い」(神奈川県平塚市主催、2004年11月8日)での発言「ジェンダーフリーという言葉を使わなくても痛くも痒くもない。(中略)ジェンダーフリーという言葉は研究者の言葉ではない。」を紹介している。桜井裕子「ジェンダーフリー」『社説対決・五番勝負』(中公新書ラクレ、2007年1月)

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まず上野氏は、『We』インタビューで、ジェンダーフリー概念をめぐる戦いは、言葉使用を巡る象徴闘争、名目上の戦いにすぎず、意地の張り合いに過ぎず、バッシング派と推進派のどちらが勝利しようと実際の女性の行動や運動は変わらないので、この戦いに乗らなければいい、ジェンダーフリーという用語を捨てたらいいなどと述べた。

また2004年12月の東京大学ジェンダー・コロキアムでも、以下のようにジェンダーフリー概念に批判的な発言を行った(注意:長いやり取りの内の関連発言部分を抜き出しているので文章はつながっていない。なお下線は筆者)。

 

上野 ジェンダーフリーという用語についてはどうですか?

山下:それも言葉は聞いたり流れたりはしましたけど、センターができる前なので、センター要望という活動中には、高岡ではジェンダーフリーという言葉は出ませんでした。

上野:ということはジェンダーフリーという用語が、全国に定着していたわけではなかったという、ひとつの証言ですね

(上野の「WE」での混合名簿・軽視発言に対して現場からの反論を受けて)

上野:男女混合名簿が現実を変えるかどうかについては、私は大学の教員として男女混合名簿を経験しておりますが、男女混合名簿と大学の性差別が何の関係もない、ということを実感しておりますので、そういうことを申し上げたんですが、学校現場では名簿が違う働きをしていると。実際それは現場では死活問題なのだというようなことを、私がこれまでお会いしてきた男女混合名簿推進者の女性教員の方から、今のような形で明確なご返答をいただいたことがありませんでした。だからサンプルが悪かったと言われればそうかもしれません。あるいは私の視野が狭かった、ということでしょう。

(現場教師からジェンダーフリー擁護発言が出たあと)

上野:ありがとうございました。ちょっと確認したいのですが、「ジェンダーフリー」が便利に使えると思われていたそうですが、それでも、代替案があればいつでもとり替えるとおっしゃいましたね。「性差別」とか「男女平等」では代替案にはならないと、お考えなんでしょうか。

上野:それを「性差別」だと言っちゃまずいんですか。

上野:そういう扱いを性差別というのですが。

上野:「ジェンダーフリー」を使って便利な言葉だと思っておられるとのことですが、「ジェンダーフリー」を使うためにはまず「ジェンダー」って何っていうことを相手に理解してもらわなければ使えません。「ジェンダーって何」、って子どもたちに聞かれて、そこから説明してじゃあ「ジェンダーフリーは」っていうほうがはるかに面倒くさくって、説明が難しい、という気がしますけど。

上野:相手は同僚ですか、子どもですか? 

教員A:はい、同僚です。 

上野:子どもには通じますか?  

上野:「ジェンダー」ということばをそのまま伝えるのですか 

教員A:ジェンダーということばが社会でこういう風に使われているということは社会(科?)の一部で伝えます。

上野:ふーん。「男らしさ/女らしさ」という言葉では具合悪いんですか。

教員A:それは男らしさ、女らしさっていう風に決めつけるのはまずいっていう・・・  

上野:だから、「ジェンダーフリー」を使わなくても、「男らしさ、女らしさにこだわらなくてもいいんだよ」って日常用語に言い換えたらどうですか。  

教員A:・・・・(無言)   

上野:先ほどのお話を聞くと、差別とか平等とかいうことばを使ったとたんに、めくじらたてる者がいて、トラブルメーカーというふうに扱われて具合が悪いという、ニュアンスを感じました。できれば差別という用語を避けたい、というふうなお話だったと解してよいでしょうか。  

教員A:いえ、差別差別という言葉を使うとまずいというのではなくて、差別という言葉だとみんなは私たちは差別をしていないんですよと言われるので、それをどう反映するか、差別、差別なんかありませんというのをどう説得するかに苦心していた。

上野:それを説明する際に、「あなたがやっている区別を差別というんですよ」、と説明すればよいので、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という用語を使わないと説明できませんか?  

教員A:あ、できると思います。できると思います。  

上野:はい、わたしもできると思います。今の上野の質問は誘導ってぽくていやらしいと思われたかもしれませんね(会場爆笑)。

上野: 全体の感じとして私が思ったことはこういうことです。「ジェンダーフリー・バッシング」という現象それ自体は不愉快だし、なんとかしたいが、だからといって「ジェンダーフリー」擁護に回る気持ちにはなれないというのが、教員Aさんを除けばここにいらっしゃる方の共通した立場だと思いますが、会場の中にはたぶん「ジェンダーフリー」擁護派に回りたい方もいらっしゃるかと思いますので、ここは議論したいと思いますが、、、。

 ただ、「ジェンダーフリー」擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題です。ただその際、私たちは妙な二者択一の踏み絵を踏まされるような感じになっています。バックラッシュと闘うべきかいなか、闘う際に「ジェンダーフリー」を擁護せねばならぬかどうか。「ジェンダーフリー」を擁護しないで、バックラッシュと闘う闘い方はあるか。それにはどうすればいいのか。あるいは「ジェンダーフリー」を擁護しないと言うときに、教員Aさんが危惧されたように、運動の中に分裂を持ち込むという、本来仲間であるべき人たちが割れるという不幸なことが起きるのかどうか、ということは検討の必要があります。

・・・・山口さんの意図はここにあると思うのは、ふつうにわかりやすいことばを使うということで、私はそれには100%賛成です。上野は難しいことばばかり使って誰に向けて書いているんだと言われますが、上野はバイリンガルです。つまり、アカデミックな場で使うのとそうでない日常用語の場で使う場合とでは、私はまったく用語を変えておりまして、その点では私は「ジェンダー・フリー」という言葉を使ったことがありません。なぜかと言うと、その意味が私にはわからないからです。それから「ジェンダー」という言葉も、私は一般向けには使いません。「ジェンダー」ということばを一切使わなくても話はいくらでもできますし、場合によってはフェミニズムということばすら使いません。このようなカタカナ言葉を使わなくても女性差別について話すことができますし、男女平等について語ることができると思いますので。

・・・ですからずっと私が違和感を感じ続けてきたのは、地方に講演に行って、「このへんじゃジェンダーて言っても通じないんですよ~。遅れているんです」って言われるたびに、この人何言っているだろう、って思ってきました。「ジェンダー」って新しい用語ですし、カタカナ言葉ですし、定訳がありませんし、知らなくて当然じゃないですか。だからといってその地方の人が女性差別に苦しんでいないとか、男女平等に自覚的じゃないとかはいえないので、なんでこんなこと言うんだろうと昔から思ってきました。私はその点については、「ジェンダーフリー」推進派にいなかったのですが、これを責任と感じなければならないのかどうか。江原説では、「ジェンダーフリー」の流通を放置したことに責任があり、学者の怠慢だというのですが、怠慢だと言われても直接自分に実害がなければ、そんなものいちいち目くじら立てる必要がないんで、いろんなことばでいろんな人が思い思いに何かを言うっていうのは、ある運動の生成期にはいつでもあることですから、自分が使わないからと言ってその言葉を撲滅する必要はない。「ジェンダーフリー」を使う人がいたってなんていうこともない。私は使わないだけです。だから一つは、私はバイリンガルだと言いました。つまり学問のことばと日常用語とのダブルスタンダードを認めたうえで、日常用語としてはこなれないカタカタは使わないということです。2つめには、学術用語としてすら意味不明で定着していない、ジェンダー研究の業界で共通の了解がない概念を使わない、ということがあります。どちらの点から見ても、「ジェンダーフリー」は使わないという結論しか出ない、と言うのが私の立場です。で、代わりがあるかというと私はあると思っているのですがね。「男女平等」というりっぱな代わりが。

 その次に、「ジェンダーフリー」を推進してきた人たちが、女性センターや条例の命名について、この用語を導入しようとしてきたかどうかを考えてみましょう。「ジェンダーフリー」が用語として入っている条例があることは確認できますが、例えば、女性センターを、「ジェンダーフリー・センター」にしようという動きを私は聞いたことがありませんし、そう名乗ったセンターを私は知りません。日本人はカタカナ言葉が好きですから「アミカス」とかなんとかいろいろカタカタ名前のセンターはありますが。今あるのは「男女共同参画センター」ですが、私だけではなく多くの人びとが「男女共同参画センター」という名称に違和感と抵抗感を感じてきたというのは事実です。これに対して、富山の方たちは「男女平等センター」の方がましだという選択をおやりになりました。が、「男女平等センター」ですら気に入らない、「女性センター」とどうしてはっきり言わないのか、という思いはあります。

・・私が「ジェンダーフリー」批判をした時に出てきた反応に、女性運動の中に分裂を持ちこむな、というものがありました。先ほど、斉藤さんから行政と女性学研究者の結託という発言が出ましたが、行政に参加していった研究者とそうでない研究者の間での分裂、あるいは手を汚したと思っている人びとと、手を汚してないと思っている人びとの間の相互の対立というのもありうるかもしれず、裏返しにいうと、これもさきほど斉藤さんがおっしゃった通り、行政主導型フェミニズムに巻きこまれていった研究者や言論を担った人たちに対する批判や抵抗が抑制されていく、それこそ後退を強いられていくということもあり得るので、これはどちらの可能性を考えても危ないことだと私は思っています。



「第3の道」という『バックラッシュ!』のスタンスでいいのか 

宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』は、バックラッシュでもジェンダーフリーでもない、第3の道を主張するというスタンスが取られている。それは、「まえがき」に明示されており、同書所収の山口智美論文、上野千鶴子論文でもそうしたスタンスが示されている。同書の中の各論文には、必ずしもそうした「第3の道」の立場でないものも含まれており、斉藤環論文など有意義なものも多いが、同書全体のスタンスは、そうなっている。

例えば、「まえがき」には「ジェンダーフリー自体には距離をとり、時には批判をしてきた論者」、「ジェンダーフリーに対して批判的かつ傍観してきた論者にお集まりいただいた」、「ジェンダーフリーは推進しない」と明示されている。

上野論文では以下のような記述が見られる。

「ジェンダーフリーという言葉は、女性学の研究者の中でも合意が形成されていないという意味でフェミニズムのアキレス腱だった」(p378)

(バックラッシュ派が)「「ジェンダーフリー」と「ジェンダー」を混同することはないだろう」(p379)

「男女平等はもっと広義な概念ですから。男女平等を特性平等論に限局したうえで、男女平等という言葉ごと葬るのは拙速かつ拙劣な戦略」(p396) 

「そういうひと(男女平等教育をしてきた優れた教育者たち・・伊田注)の中で、ジェンダーフリーという言葉に飛びついた人を私は見たことがありません」(p397)

「ジェンダーフリーと言えば、すぐにセクシャル・マイノリティを取り上げるという短絡に私は違和感を持っています」(p397)

「女の子たちに、性的主体性や自律性を身につけさせるのには、どうしたらいいのかを考えると、10代の子どもの教育現場で重要なのは、「ジェンダーフリー教育」などというものではありません。」 (p398) 

 「「ジェンダーフリー教育」を唱える教育者たちが、いったい何をやってきたのかということを再考せざるを得なくなります。たとえば、「ジェンダーフリー」という標語があったおかげで、トランスジェンダーやゲイといったセクシャル・マイノリティについて教えることができた、という「ジェンダーフリー教育」の実践者がいます。しかし、そういう実践者の声を聞くたびに、基本的な何かを踏み外しているのではないか、という気持ちを私は持っています」(p399)

「「ジェンダーフリー教育」をやっている人たちには、小中学校の先生たちが多いのですが、小学生に対して、どうやって「ジェンダー」を説明するのでしょうか。「ちゃんとお客さんを見てしゃべれよ」と言いたいです。生徒たちにわかる言葉を使わずに、「ジェンダーフリー」の教育実践をしているなんて言う人を、私は信用できません」(p399)

「ジェンダーフリーという言葉がどのように使われているのかなどということは、特に心配するようなことではない」(p403)

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後半に続く

この論文の後半判は「フェミニズム2」のページに掲載